P--955 P--956 P--957 #1浄土真要鈔 #2本    浄土真要鈔 本 【1】 それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』 (上)のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をす すめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑ なり。しかのみならず、おなじき『経』(下)の三輩往生の文に、みな通じて 「一向専念無量寿仏」と説きて、「一向にもつぱら無量寿仏を念ぜよ」といへ り。「一向」といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとな り。「専念」といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてま つるほかに二つをならぶることなかれとなり。これによりて、唐土(中国)の 高祖善導和尚は正行と雑行とをたてて、雑行をすてて正行に帰すべきことわ りをあかし、正業と助業とをわかちて、助業をさしおきて正業をもつぱらにす べき義を判ぜり。ここにわが朝の善知識黒谷の源空聖人、かたじけなく如来の P--958 つかひとして末代片州の衆生を教化したまふ。そののぶるところ釈尊の誠説 にまかせ、そのひろむるところもつぱら高祖(善導)の解釈をまもる。かの聖人 (源空)のつくりたまへる『選択集』にいはく、「速欲離生死 二種勝法中  且閣聖道門 選入浄土門 欲入浄土門 正雑二行中 且抛諸雑行 選応帰 正行 欲修於正行 正助二業中 猶傍於助業 選応専正定 正定之業者  即是称仏名 称名必得生 依仏本願故」といへり。この文のこころは、「す みやかに生死をはなれんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣 きて選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しば らくもろもろの雑行を抛てて選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲は ば、正助二業のなかに、なほ助業をかたはらにして選んで正定をもつぱらに すべし。正定の業といふは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば かならず生るることを得。仏の本願によるがゆゑに」となり。すでに南無阿弥 陀仏をもつて正定の業と名づく。「正定の業」といふは、まさしく定まるた ねといふこころなり。これすなはち往生のまさしく定まるたねは念仏の一行な りとなり。自余の一切の行は往生のために定まれるたねにあらずときこえた P--959 り。しかれば決定往生のこころざしあらんひとは、念仏の一行をもつぱらに して、専修専念・一向一心なるべきこと、祖師の解釈はなはだあきらかなるも のをや。しかるにこのごろ浄土の一宗において、面々に義をたて行を論ずる家 家、みなかの黒谷(源空)の流にあらずといふことなし。しかれども解行みな おなじからず。おのおの真仮をあらそひ、たがひに邪正を論ず。まことに是非 をわきまへがたしといへども、つらつらその正意をうかがふに、もろもろの雑 行をゆるし諸行の往生を談ずる義、とほくは善導和尚の解釈にそむき、ちかく は源空聖人の本意にかなひがたきものをや。しかるにわが親鸞聖人の一義は、 凡夫のまめやかに生死をはなるべきをしへ、衆生のすみやかに往生をとぐべき すすめなり。そのゆゑは、ひとへにもろもろの雑行を抛てて、もつぱら一向専 修の一行をつとむるゆゑなり。これすなはち余の一切の行はみなとりどりにめ でたけれども、弥陀の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法 にあらず。念仏の一行はこれ弥陀選択の本願なり、釈尊付属の行なり、諸仏証 誠の法なればなり。釈迦・弥陀および十方の諸仏の御こころにしたがひて念仏 を信ぜんひと、かならず往生の大益を得べしといふこと、疑あるべからず。 P--960 かくのごとく一向に行じ、一心に修すること、わが流のごとくなるはなし。さ ればこの流に帰して修行せんひと、ことごとく決定往生の行者なるべし。し かるにわれらさいはひにその流をくみて、もつぱらかのをしへをまもる、宿因 のもよほすところ、よろこぶべし、たふとむべし。まことに恒沙の身命をすて ても、かの恩徳を報ずべきものなり。釈尊・善導この法を説きあらはしたまふ とも、源空・親鸞出世したまはずは、われらいかでか浄土をねがはん。たとひ また源空・親鸞世に出でたまふとも、次第相承の善知識ましまさずは、真実の 信心をつたへがたし。善導和尚の『般舟讃』にいはく、「若非本師知識勧 弥 陀浄土云何入」といへり。文のこころは、「もし本師(釈迦)・知識のすすめに あらずは、弥陀の浄土にいかんしてか入らん」となり。知識のすすめなくして は浄土に生るべからずとみえたり。また法照禅師の『五会法事讃』にいはく、 「曠劫以来流浪久 随縁六道受輪廻 不遇往生善知識 誰能相勧得回帰」とい へり。この文のこころは、「曠劫よりこのかた流浪せしこと久し、六道生死に めぐりてさまざまの輪廻の苦しみを受けき、往生の善知識に遇はずは、たれか よくあひすすめて弥陀の浄土に生るることを得ん」となり。しかれば、かつは P--961 仏恩を報ぜんがため、かつは師徳を謝せんがために、この法を十方にひろめ て、一切衆生をして西方の一土にすすめ入れしむべきなり。『往生礼讃』にい はく、「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」といへり。ここ ろは、「みづからもこの法を信じ、ひとをしても信ぜしむること、難きがなか にうたたさらに難し、弥陀の大悲を伝へてあまねく衆生を化する、これまこと に仏恩を報ずるつとめなり」といふなり。 【2】 問うていはく、諸流の異義まちまちなるなかに、往生の一道において、 あるいは平生業成の義を談じ、あるいは臨終往生ののぞみをかけ、あるいは 来迎の義を執し、あるいは不来迎のむねを成ず。いまわが流に談ずるところ、 これらの義のなかにはいづれの義ぞや。  答へていはく、親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして臨終往生 ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執せず。ただし平生業成と いふは、平生に仏法にあふ機にとりてのことなり。もし臨終に法にあはば、そ の機は臨終に往生すべし。平生をいはず、臨終をいはず、ただ信心をうるとき 往生すなはち定まるとなり。これを即得往生といふ。これによりて、わが聖人 P--962 (親鸞)のあつめたまへる『教行証の文類』の第二(行巻)、「正信偈」の文に いはく、「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一 味」といへり。この文のこころは、「よく一念歓喜の信心を発せば、煩悩を断 ぜざる具縛の凡夫ながらすなはち涅槃の分を得、凡夫も聖人も五逆も謗法もひ としく生る。たとへばもろもろの水の海に入りぬれば、ひとつ潮の味はひとな るがごとく、善悪さらにへだてなし」といふこころなり。ただ一念の信心定ま るとき、竪に貪・瞋・痴・慢の煩悩を断ぜずといへども、横に三界・六道輪廻 の果報をとづる義あり。しかりといへどもいまだ凡身をすてず、なほ具縛の穢 体なるほどは、摂取の光明のわが身を照らしたまふをもしらず、化仏・菩薩の まなこのまへにましますをもみたてまつらず。しかるに一期のいのちすでに尽 きて、息たえ、まなことづるとき、かねて証得しつる往生のことわりここにあ らはれて、仏・菩薩の相好をも拝し、浄土の荘厳をもみるなり。これさらに臨 終のときはじめて得る往生にはあらず。されば至心・信楽の信心をえながら、 なほ往生をほかにおきて、臨終のときはじめて得んとはおもふべからず。し たがひて信心開発のとき、摂取の光益のなかにありて往生を証得しつるうへに P--963 は、いのちをはるときただそのさとりのあらはるるばかりなり。ことあたらし くはじめて聖衆の来迎にあづからんことを期すべからずとなり。さればおなじ き次下の解釈(正信偈)にいはく、「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋 憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」といへり。こ の文のこころは、「阿弥陀如来の摂取の心光はつねに行者を照らし護りて、す でによく無明の闇を破すといへども、貪欲・瞋恚等の悪業、雲・霧のごとくし て真実信心の天を覆へり。たとへば日の光の雲・霧に覆はれたれども、そのし たはあきらかにしてくらきことなきがごとし」となり。されば信心をうるとき 摂取の益にあづかる。摂取の益にあづかるがゆゑに正定聚に住す。しかれば 三毒の煩悩はしばしばおこれども、まことの信心はかれにもさへられず。顛 倒の妄念はつねにたえざれども、さらに未来の悪報をばまねかず。かるがゆゑ に、もしは平生、もしは臨終、ただ信心のおこるとき往生は定まるぞとなり。 これを「正定聚に住す」ともいひ、「不退の位に入る」ともなづくるなり。こ のゆゑに聖人(親鸞)またのたまはく、「来迎は諸行往生にあり、自力の行者 なるがゆゑに。臨終まつことと来迎たのむことは、諸行往生のひとにいふべ P--964 し。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚に住す。正定聚に住するが ゆゑにかならず滅度に至る。滅度に至るがゆゑに大涅槃を証するなり。かるが ゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(御消息・一意)といへり。こ れらの釈にまかせば、真実信心のひと、一向専念のともがら、臨終をまつべか らず、来迎を期すべからずといふこと、そのむねあきらかなるものなり。 【3】 問うていはく、聖人(親鸞)の料簡はまことにたくみなり、仰いで信ずべ し。ただし経文にかへりて理をうかがふとき、いづれの文によりてか、来迎を 期せず臨終をまつまじき義をこころうべきや。たしかなる文義をききて、いよ いよ堅固の信心をとらんとおもふ。  答へていはく、凡夫、智あさし。いまだ経釈のおもむきをわきまへず。聖 教万差なれば、方便の説あり、真実の説あり。機に対すればいづれもその益あ り。一偏に義をとりがたし。ただ祖師(親鸞)のをしへをききて、わが信心をた くはふるばかりなり。しかるに世のなかにひろまれる諸流、みな臨終をいのり 来迎を期す。これを期せざるはひとりわが家なり。しかるあひだこれをきくも のはほとほと耳をおどろかし、これをそねむものははなはだあざけりをなす。 P--965 しかればたやすくこの義を談ずべからず。他人謗法の罪をまねかざらんがため なり。それ親鸞聖人は深智博覧にして内典・外典にわたり、慧解高遠にして聖 道・浄土をかねたり。ことに浄土門に入りたまひしのちは、もつぱら一宗のふ かきみなもとをきはめ、あくまで明師(源空)のねんごろなるをしへをうけた まへり。あるいはそのゆるされをかうぶりて製作をあひ伝へ、あるいはかのあ はれみにあづかりて真影をうつしたまはらしむ。としをわたり日をわたりて、 そのをしへをうくるひと千万なりといへども、したしきといひ、うときとい ひ、製作をたまはり真影をうつすひとはその数おほからず。したがひて、この 門流のひろまれること自宗・他宗にならびなく、その利益のさかりなること 田舎・辺鄙におよべり。化導のとほくあまねきは、智慧のひろきがいたすとこ ろなり。しかれば、相承の義さだめて仏意にそむくべからず。流をくむやか ら、ただ仰いで信をとるべし。無智の末学なまじひに経釈について義を論ぜ ば、そのあやまりをのがれがたきか。よくよくつつしむべし。ただし、一分な りとも信受するところの義、一味同行のなかにおいてこれをはばかるべきにあ らず。いまこころみに料簡するに、まづ浄土の一門をたつることは三部妙典の P--966 説に出でたり。そのなかに弥陀如来、因位の本願を説きて凡夫の往生を決する こと、『大経』の説これなり。その説といふは四十八願なり。四十八願のなか に、念仏往生の一益を説くことは第十八の願にあり。しかるに第十八の願のな かに、臨終・平生の沙汰なし、聖衆来現の儀をあかさず。かるがゆゑに、十八の 願に帰して念仏を修し往生をねがふとき、臨終をまたず来迎を期すべからずと なり。すなはち第十八の願にいはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生 我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といへり。この願のこころ は、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に 生れんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは正覚を取らじ」となり。この願 文のなかに、まつたく臨終と説かず平生といはず、ただ至心信楽の機において 十念の往生をあかせり。しかれば臨終に信楽せば臨終に往生治定すべし、平生 に至心せば平生に往生決得すべし。さらに平生と臨終とによるべからず、ただ 仏法にあふ時節の分斉にあるべし。しかるに、われらはすでに平生に聞名欲往 生の義あり。ここにしりぬ、臨終の機にあらず平生の機なりといふことを。か るがゆゑにふたたび臨終にこころをかくべからずとなり。しかのみならず、お P--967 なじき第十八の願成就の文(大経・下)にいはく、「諸有衆生 聞其名号 信心 歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」といへり。この 文のこころは、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜し、乃至一念せ ん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、 不退転に住す」となり。こころは、「一切の衆生、無碍光如来の名をきき得て、 生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと、よろこびおもふこころ の一念おこるとき往生は定まるなり。これすなはち弥陀如来、因位のむかし、 至心に回向したまへりしゆゑなり」となり。この一念について隠顕の義あり。 顕には、十念に対するとき一念といふは称名の一念なり。隠には、真因を決 了する安心の一念なり。これすなはち、相好・光明等の功徳を観想する念にあ らず。ただかの如来の名号をきき得て、機教の分限をおもひ定むる位をさすな り。されば親鸞聖人はこの一念を釈すとして、「一念といふは信心を獲得する 時節の極促を顕す」(信巻・意)と判じたまへり。しかればすなはち、いまいふ ところの往生といふは、あながちに命終のときにあらず、無始以来、輪転六道 の妄業、一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生の名願力にほろぼされて、涅槃 P--968 畢竟の真因はじめてきざすところをさすなり。すなはちこれを「即得往生 住 不退転」と説きあらはさるるなり。「即得」といふは、すなはちうとなり。す なはちうといふは、ときをへだてず日をへだてず念をへだてざる義なり。され ば一念帰命の解了たつとき、往生やがて定まるとなり。うるといふは定まるこ ころなり。この一念帰命の信心は凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の 智心なり。しかれば二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如 来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」 といふは、「念々無遺乗彼願力之道」(散善義)といへるこれなり。こころは、 「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者 の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」(散善 義)といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心 を生ず」となり。されば、「水火の二河」は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心 なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の 願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心 とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の P--969 智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば清浄の心とは釈す べからず。このゆゑに『経』(大経・上)には、「令諸衆生功徳成就」といへ り。こころは、「弥陀如来、因位のむかし、もろもろの衆生をして功徳成就せ しめたまふ」となり。それ、阿弥陀如来は三世の諸仏に念ぜられたまふ覚体な れば、久遠実成の古仏なれども、十劫以来の成道をとなへたまひしは果後の方 便なり。これすなはち「衆生往生すべくはわれも正覚を取らん」と誓ひて、 衆生の往生を決定せんがためなり。しかるに衆生の往生定まりしかば、仏の正 覚も成りたまひき。その正覚いまだ成りたまはざりしいにしへ、法蔵比丘とし て難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねを ばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれ ば、仏心と凡心とまつたくひとつになるなり。この位に無碍光如来の光明、か の帰命の信心を摂取して捨てたまはざるなり。これを『観無量寿経』には、 「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」と説き、『阿弥陀経』には、「皆 得不退転於阿耨多羅三藐三菩提」と説けるなり。「摂取不捨」といふは、弥陀 如来の光明のなかに念仏の衆生を摂め取りて捨てたまはずとなり。これすなは P--970 ちかならず浄土に生ずべきことわりなり。「不退転を得」といふは、ながく三 界・六道にかへらずして、かならず無上菩提を得べき位に定まるなり。 浄土真要鈔 本 P--971 #2末    浄土真要鈔 末 【4】 問うていはく、念仏の行者一念の信心定まるとき、あるいは「正定聚に 住す」といひ、あるいは「不退転を得」といふこと、はなはだおもひがたし。 そのゆゑは、正定聚といふは、かならず無上の仏果にいたるべき位に定まる なり。不退転といふは、ながく生死にかへらざる義をあらはすことばなり。そ のことばことなりといへども、そのこころおなじかるべし。これみな浄土に生 れて得る位なり。しかれば、「即得往生住不退転」(大経・下)といへるも、浄 土にして得べき益なりとみえたり。いかでか穢土にしてたやすくこの位に住す といふべきや。  答へていはく、土につき機につきて退・不退を論ぜんときは、まことに穢土 の凡夫、不退にかなふといふことあるべからず。浄土は不退なり、穢土は有退 なり。菩薩の位において不退を論ず、凡夫はみな退位なり。しかるに薄地底下 P--972 の凡夫なれども、弥陀の名号をたもちて金剛の信心をおこせば、よこさまに三 界流転の報をはなるるゆゑに、その義、不退を得るにあたれるなり。これすな はち菩薩の位において論ずるところの位・行・念の三不退等にはあらず。いま いふところの不退といふは、これ心不退なり。されば善導和尚の『往生礼讃』 には、「蒙光触者心不退」と釈せり。こころは、「弥陀如来の摂取の光益にあ づかりぬれば、心不退を得」となり。まさしくかの『阿弥陀経』の文には、 「欲生阿弥陀仏国者 是諸人等 皆得不退転於阿耨多羅三藐三菩提」といへ り。「願をおこして阿弥陀仏の国に生れんとおもへば、このもろもろのひとら みな不退転を得」といへる、現生において願生の信心をおこせば、すなはち不 退にかなふといふこと、その文はなはだあきらかなり。またおなじき『経』 の次上の文に、念仏の行者の得るところの益を説くとして、「是諸善男子善女 人 皆為一切諸仏共所護念 皆得不退転於阿耨多羅三藐三菩提」といへり。文 のこころは、「このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸仏のためにともに 護念せられて、みな不退転を阿耨多羅三藐三菩提に得」となり。しかれば、阿 弥陀仏の国に生れんとおもふまことなる信心のおこるとき、弥陀如来は遍照の P--973 光明をもつてこれを摂め取り、諸仏はこころをひとつにしてこの信心を護念し たまふがゆゑに、一切の悪業煩悩にさへられず、この心すなはち不退にしてか ならず往生を得るなり。これを「即得往生住不退転」(大経・下)と説くなり。 「すなはち往生を得」といへるは、やがて往生を得といふなり。ただし、「即 得往生住不退転」といへるは、浄土に往生して不退を得べき義を遮せんとに はあらず。まさしく往生ののち三不退をも得、処不退にもかなはんことはしか なり。処々の経釈そのこころなきにあらず、与奪のこころあるべきなり。し かりといへども、いま「即得往生住不退転」といへる本意には、証得往生現 生不退の密益を説きあらはすなり。これをもつてわが流の極致とするなり。 かるがゆゑに聖人(親鸞)、『教行証の文類』のなかに、処々にこの義をのべ たまへり。かの『文類』の第二(行巻)にいはく、「憶念弥陀仏本願 自然即 時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」(正信偈)といへり。こころ は、「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然にすなはちのとき必定に入る、ただよ くつねに如来の名を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」となり。「すなはちの とき」といふは、信心をうるときをさすなり。「必定に入る」といふは、正 P--974 定聚に住し不退にかなふといふこころなり。この凡夫の身ながらかかるめで たき益を得ることは、しかしながら弥陀如来の大悲願力のゆゑなれば、「つね にその名号をとなへてかの恩徳を報ずべし」とすすめたまへり。またいはく、 「十方群生海、この行信に帰命するものを摂取して捨てず、かるがゆゑに阿弥 陀仏と名づけたてまつる、これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は〈即時 入必定〉といひ、曇鸞大師は〈入正定之聚〉といへり。仰いでこれを憑む べし、もつぱらこれを行ずべし」(行巻)といへり。「龍樹大士は即時入必定 といふ」といふは、『十住毘婆沙論』に「人能念是仏 無量力功徳 即時入 必定 是故我常念」といへる文これなり。この文のこころは、「ひとよくこの 仏の無量力功徳を念ずれば、すなはちのとき必定に入る。このゆゑにわれつね に念ず」となり。「この仏」といへるは阿弥陀仏なり。「われ」といへるは龍 樹菩薩なり。さきに出すところの「憶念弥陀仏本願力」の釈も、これ龍樹の論 判によりてのべたまへるなり。「曇鸞大師は入正定之聚といへり」といふは、 『註論』(論註)の上巻に「但以信仏因縁 願生浄土 乗仏願力便得往生 彼清浄土 仏力住持即入大乗正定之聚」といへる文これなり。文のここ P--975 ろは、「ただ仏を信ずる因縁をもつて浄土に生れんと願へば、仏の願力に乗じ てすなはちかの清浄の土に往生することを得、仏力住持してすなはち大乗正 定の聚に入る」となり。これも文の顕説は、浄土に生れてのち正定聚に住す る義を説くに似たりといへども、そこには願生の信を生ずるとき不退にかなふ ことをあらはすなり。なにをもつてかしるとならば、この『註論』(論註)の釈 は、かの『十住毘婆沙論』のこころをもつて釈するがゆゑに、本論のこころ 現身の益なりとみゆるうへは、いまの釈もかれにたがふべからず。聖人(親鸞) ふかくこのこころを得たまひて、信心をうるとき正定の位に住する義を引き 釈したまへり。「すなはち」といへるは、ときをうつさず、念をへだてざる義 なり。またおなじき第三(信巻)に、領解の心中をのべたまふとして、「愛欲 の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証 の証にちかづくことを快しまず」といへり。これすなはち定聚の数に入ること をば現生の益なりと得て、これをよろこばずと、わがこころをはぢしめ、真証 のさとりをば生後の果なりと得て、これにちかづくことをたのしまずと、かな しみたまふなり。「定聚」といへるはすなはち不退の位、また必定の義なり。 P--976 「真証のさとり」といへるはこれ滅度なり。また常楽ともいふ、法性ともいふ なり。またおなじき第四(証巻)に、第十一の願によりて真実の証をあらはす に、「煩悩成就の凡夫・生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、すなはち のときに大乗正定聚の数に入る。正定聚に住するがゆゑにかならず滅度に 至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり、常楽はすなはちこれ畢竟 寂滅なり、寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり、無上涅槃はすなはちこれ無為法 身なり、無為法身はすなはちこれ実相なり、実相はすなはちこれ法性なり、法 性はすなはちこれ真如なり、真如はすなはちこれ一如なり」といへる、すなは ちこのこころなり。聖人(親鸞)の解了、常途の所談におなじからず。甚深の 教義、よくこれをおもふべし。 【5】 問うていはく、『観経』の下輩の機をいふに、みな臨終の一念・十念によ りて往生を得とみえたり。まつたく平生往生の義を説かず、いかん。  答へていはく、『観経』の下輩は、みなこれ一生造悪の機なるがゆゑに、生 れてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業を造ることをのみしれり。 しかるに、臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐといへ P--977 り。これすなはち罪ふかく悪おもき機、行業いたりてすくなけれども、願力 の不思議によりて刹那に往生をとぐ。これあながちに臨終を賞せんとにはあら ず、法の不思議をあらはすなり。もしそれ平生に仏法にあはば、平生の念仏、 そのちからむなしからずして往生をとぐべきなり。 【6】 問うていはく、十八の願について、因位の願には「十念」と願じ、願成 就の文には「一念」と説けり。二文の相違いかんがこころうべきや。  答へていはく、因位の願のなかに「十念」といへるは、まづ三福等の諸善に 対して十念の往生を説けり。これ易行をあらはすことばなり。しかるに成就の 文に「一念」といへるは、易行のなかになほ易行をえらびとるこころなり。そ のゆゑは『観経義』の第二(序分義)に、「十三定善のほかに三福の諸善を説 くことを釈す」として、「若依定行 即摂生不尽 是以如来方便 顕開三福  以応散動根機」といへり。文のこころは、「もし定行によれば、すなはち生を 摂するに尽きず。ここをもつて如来、方便して三福を顕開して散動の根機に応 ず」となり。いふこころは、「『観経』のなかに定善ばかりを説かば、定機ば かりを摂すべきゆゑに、散機の往生をすすめんがために散善を説く」となり。 P--978 これになずらへてこころうるに、散機のなかに二種の品あり。ひとつには善 人、ふたつには悪人なり。その善人は三福を行ずべし、悪人はこれを行ずべか らざるがゆゑに、それがために十念の往生を説くとこころえられたり。しかる にこの悪人のなかにまた長命・短命の二類あるべし。長命のためには十念を あたふ、至極短命の機のためには一念の利生を成就すとなり。これ他力のなか の他力、易行のなかの易行をあらはすなり。一念の信心定まるとき往生を証得 せんこと、これその証なり。 【7】 問うていはく、因願には「十念」と説き、成就の文には「一念」と説く といへども、処々の解釈おほく十念をもつて本とす。いはゆる『法事讃』(下) には「上尽一形至十念」といひ、『礼讃』には「称我名号下至十声」といへる 釈等これなり。したがひて、世の常の念仏の行者をみるに、みな十念をもつて 行要とせり。しかるに一念をもつてなほ「易行のなかの易行なり」といふこと おぼつかなし、いかん。  答へていはく、処々の解釈、「十念」と釈すること、あるいは因願のなかに 「十念」と説きたれば、その文によるとこころえぬれば相違なし。世の常の行 P--979 者のもちゐるところ、またこの義なるべし。「一念」といへるもまた経釈の 明文なり。いはゆる経には『大経』(下)の成就の文、おなじき下輩の文、お なじき流通の文等これなり。成就の文はさきに出すがごとし。下輩の文といふ は、「乃至一念念於彼仏」といへる文これなり。流通の文といふは、「其有得 聞 彼仏名号 歓喜踊躍 乃至一念 当知此人 為得大利 即是具足 無上功 徳」といへる文これなり。この文のこころは、「それ、かの仏の名号をきくこ とを得て、歓喜踊躍して乃至一念することあらん。まさに知るべし、このひと は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」となり。釈には、 『礼讃』のなかに、あるいは「弥陀本弘誓願 及称名号 下至十声一声等  定得往生 乃至一念無有疑心」といひ、あるいは「歓喜至一念皆当得生彼」 といへる釈等これなり。おほよそ「乃至」のことばをおけるゆゑに、十念とい へるも十念にかぎるべからず、一念といへるも一念にとどまるべからず。一念 のつもれるは十念、十念のつもれるは一形、一形をつづむれば十念、十念をつ づむれば一念なれば、ただこれ修行の長短なり。かならずしも十念にかぎるべ からず。しかれば『選択集』に諸師と善導和尚と、第十八の願において名を P--980 たてたることのかはりたる様を釈するとき、このこころあきらかなり。そのこ とばにいはく、「諸師の別して十念往生の願といへるは、そのこころすなは ちあまねからず。しかるゆゑは上一形を捨て下一念を捨つるがゆゑなり。善導 の総じて念仏往生の願といへるは、そのこころすなはちあまねし。しかるゆゑ は、上一形を取り下一念を取るがゆゑなり」となり。しかのみならず、『教行 証文類』の第二(行巻)に『安楽集』(上)を引きていはく、「十念相続といふ は、これ聖者のひとつの数の名ならくのみ。すなはちよく念を積み、思を凝ら して、他事を縁ぜざれば、業道成弁せしめてすなはち罷みぬ。またいたはしく これを頭数を記さじ」といへり。「十念」といへるは、臨終に仏法にあへる機 についていへることばなり。されば経文のあらはなるについて、ひとおほくこ れをもちゐる。これすなはち臨終をさきとするゆゑとみえたり。平生に法をき きて畢命を期とせんひと、あながちに十念をこととすべからず。さればとて十 念を非するにはあらず。ただおほくもすくなくも、ちからの堪へんにしたがひ て行ずべし。かならずしも数を定むべきにあらずとなり。いはんや聖人(親鸞) の釈義のごとくは、一念といへるについて、行の一念と信の一念とをわけられ P--981 たり。いはゆる行の一念をば真実行のなかにあらはして、「行の一念といふは、 いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す」(行巻)といひ、信の 一念をば真実信のなかにあらはして、「信楽に一念あり、一念といふはこれ、 信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰す」(信巻)といへり。上 にいふところの十念・一念は、みな行について論ずるところなり。信心につい ていはんときは、ただ一念開発の信心をはじめとして、一念の疑心をまじへ ず、念々相続してかの願力の道に乗ずるがゆゑに、名号をもつてまつたくわが 行体と定むべからざれば、十念とも一念ともいふべからず、ただ他力の不思議 を仰ぎ、法爾往生の道理にまかすべきなり。 【8】 問うていはく、来迎は念仏の益なるべきこと経釈ともに歴然なり。した がひて、諸流みなこの義を存せり。しかるに来迎をもつて諸行の益とせんこ と、すこぶる浄土宗の本意にあらざるをや。  答へていはく、あにさきにいはずや、この義はこれわが一流の所談なりと は。他流の義をもつて当流の義を難ずべからず。それ経釈の文においては自 他ともに依用す。ただ料簡のまちまちなるなり。まづ来迎を説くことは、第十 P--982 九の願にあり。かの願文をあきらめてこころうべし。その願にいはく、「設我 得仏 十方衆生 発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国 臨寿終時 仮 令不与 大衆囲繞 現其人前者 不取正覚」(大経・上)といへり。この願のこ ころは、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろ の功徳を修して、心を至し願を発して、わが国に生れんと欲はん。寿終るとき に臨みて、たとひ大衆と囲繞して、その人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」と なり。「修諸功徳」といふは諸行なり。「現其人前」といふは来迎なり。諸行 の修因にこたへて来迎にあづかるべしといふこと、その義あきらかなり。され ば得生は十八の願の益、来迎は十九の願の益なり。この両願のこころを得な ば、経文にも解釈にも来迎をあかせるは、みな十九の願の益なりとこころうべ きなり。ただし念仏の益に来迎あるべきやうにみえたる文証、ひとすぢにこれ なきにはあらず。しかれども聖教において、方便の説あり真実の説あり、一 往の義あり再往の義あり。念仏において来迎あるべしとみえたるは、みな浅機 を引せんがための一往方便の説なり。深理をあらはすときの再往真実の義にあ らずとこころうべし。当流の料簡かくのごとし。善導和尚の解釈にいはく、 P--983 「道里雖遥去時一念即到」(序分義)といへり。こころは、「浄土と穢土と、そ のさかひはるかなるに似たりといへども、まさしく去るときは、一念にすなは ち到る」といふこころなり。往生の時分一念なれば、そのあひだにはさらに来 迎の儀式もあるべからず。まどひをひるがへしてさとりをひらかんこと、ただ たなごころをかへすへだてなるべし。かくのごときの義、もろもろの有智のひ と、そのこころを得つべし。 【9】 問うていはく、経文について、十八・十九の両願をもつて得生と来迎と にわかちあつる義、一流の所談ほぼきこえをはりぬ。ただし解釈についてなほ 不審あり。諸師の釈はしばらくこれをさしおく。まづ善導一師の釈において処 処に来迎を釈せられたり。これみな念仏の益なりとみえたり。いかがこころ うべきや。  答へていはく、和尚(善導)の解釈に来迎を釈することはしかなり。ただし 一往は念仏の益に似たれども、これみな方便なり。実には諸行の益なるべし。 そのゆゑは、さきにのぶるがごとく念仏往生のみちを説くことは第十八の願な り。しかるに和尚(善導)、処々に十八の願を引き釈せらるるに、まつたく来迎 P--984 の義を釈せられず。十九の願に説くところの来迎、もし十八の願の念仏の益な るべきならば、もつとも十八の願を引くところに来迎を釈せらるべし。しかる にその文なし。あきらかにしりぬ、来迎は念仏の益にあらずといふことを。よ くよくこれをおもふべし。 【10】 問うていはく、第十八の願を引き釈せらるる処々の解釈といふはいづれ ぞや。  答へていはく、まづ『観経義』の「玄義分」に二処あり。いはゆる序題門・ 二乗門の釈これなり。まづ序題門の釈には、「言弘願者如大経説 一切善悪凡 夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏大願業力為増上縁也」といへり。こころは、「弘 願といふは『大経』に説くがごとし。一切善悪の凡夫、生るることを得るもの は、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせずといふことなし」となり。 これ十八の願のこころなり。つぎに二乗門の釈には、「若我得仏 十方衆生  称我名号 願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚」といへり。また『往 生礼讃』には、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取 正覚」といひ、『観念法門』には「若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字  P--985  下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚」といへり。これらの文、そのこ とばすこしき加減ありといへども、そのこころおほきにおなじ。文のこころ は、「もしわれ成仏せんに、十方の衆生わが国に生ぜんと願じて、わが名字を 称すること、下十声に至らん、わが願力に乗じて、もし生れずは正覚を取らじ」 となり。あるいは「称我名号」といひ、あるいは「乗我願力」といへる、これ らのことばは本経(大経)になけれども、義としてあるべきがゆゑに、和尚(善 導)この句をくはへられたり。しかれば来迎の益も、もしまことに念仏の益に してこの願のなかにあるべきならば、もつともこれらの引文のなかにこれをの せらるべし。しかるにその文なきがゆゑに、来迎は念仏の益にあらずとしらる るなり。処々の解釈においては来迎を釈すといふとも、十八の願の益と釈せら れずは、その義相違あるべからず。 【11】 問うていはく、念仏の行者は十八の願に帰して往生を得、諸行の行人は 十九の願をたのみて来迎にあづかるといひて、各別にこころうることしかるべ からず。そのゆゑは、念仏の行者の往生を得るといふは、往生よりさきには来 迎にあづかるべし。諸行の行人の来迎にあづかるといふは、来迎ののちには往 P--986 生を得べし。なんぞ各別にこころうべきや。  答へていはく、親鸞聖人の御意をうかがふに、念仏の行者の往生を得るとい ふは、化仏の来迎にあづからず。もしあづかるといふは、報仏の来迎なり。こ れ摂取不捨の益なり。諸行の行人の来迎にあづかるといふは真実の往生をとげ ず、もしとぐるといふもこれ胎生辺地の往生なり。念仏と諸行とひとつにあら ざれば、往生と来迎とまたおなじかるべからず。しかれば他力真実の行人は、 第十八の願の信心をえて、第十一の必至滅度の願の果を得るなり。これを念仏 往生といふ。これ真実報土の往生なり。この往生は一念帰命のとき、さだまり てかならず滅度に至るべき位を得るなり。このゆゑに聖人(親鸞)の『浄土文 類聚鈔』にいはく、「必至無上浄信暁 三有生死之雲晴 清浄無碍光耀朗  一如法界真身顕」といへり。この文のこころは、「かならず無上浄信の暁に 至れば、三有生死の雲晴る。清浄無碍の光耀朗らかにして、一如法界の真身 顕る」となり。「三有生死の雲晴る」といふは、三界流転の業用よこさまにた えぬとなり。「一如法界の真身顕る」といふは、寂滅無為の一理をひそかに証 すとなり。しかれども煩悩におほはれ業縛にさへられて、いまだその理をあら P--987 はさず。しかるにこの一身をすつるとき、このことわりのあらはるるところを さして、和尚(善導)は、「この穢身を捨ててかの法性の常楽を証す」(玄義分) と釈したまへるなり。されば往生といへるも、生即無生のゆゑに、実には不生 不滅の義なり。これすなはち弥陀如来清浄本願の無生の生なるがゆゑに、法 性清浄畢竟無生なり。さればとて、この無生の道理をここにして、あなが ちにさとらんとはげめとにはあらず。無智の凡夫は法性無生のことわりをしら ずといへども、ただ仏の名号をたもち往生をねがひて浄土に生れぬれば、かの 土はこれ無生のさかひなるがゆゑに、見生のまどひ、自然に滅して無生のさと りにかなふなり。この義くはしくは曇鸞和尚の『註論』(論註)にみえたり。し かればひとたび安養にいたりぬれば、ながく生・滅・去・来等のまどひをはな る。そのまどひをひるがへしてさとりをひらかん一念のきざみには、実には来 迎もあるべからずとなり。来迎あるべしといへるは方便の説なり。このゆゑに 高祖善導和尚の解釈にも、「弥陀如来は娑婆に来りたまふ」とみえたるところ もあり、また「浄土をうごきたまはず」とみえたる釈もあり。しかれども当流 のこころにては、「来る」といへるはみな方便なりとこころうべし。『法事讃』 P--988 (下)にいはく、「一坐無移亦不動 徹窮後際放身光 霊儀相好真金色 巍々独 坐度衆生」といへり。文のこころは、「ひとたび坐して移ることなく、また動 きたまはず。後際を徹窮して身光を放つ、霊儀の相好真金色なり、巍々として 独り坐して衆生を度したまふ」となり。この文のごとくならば、ひとたび正覚 を成りたまひしよりこのかた、まことの報身は動きたまふことなし。ただ浄土 に坐してひかりを十方に放ちて摂取の益をおこしたまふとみえたり。おほよそ しりぞいて他宗のこころをうかがふにも、まことに来ると執ずるならば、大乗 甚深の義にはかなひがたきをや。されば真言の祖師善無畏三蔵の解釈にも、 「弥陀の真身の相を釈す」として、「理智不二 名弥陀身 不従他方 来迎引 接」といへり。こころは「法身の理性と報身の智品と、このふたつきはまりて ひとつなるところを弥陀仏と名づく、他方より来迎引接せず」となり。真実報 身の体は来迎の義なしとみえたり。自力不真実の行人は、第十九の願に誓ひま しますところの「修諸功徳 乃至 現其人前」(大経・上)の文をたのみて、の ぞみを極楽にかく。しかれども、もとより諸善は本願にあらず、浄土の生因に あらざるがゆゑに報土の往生をとげず。もしとぐるもこれ胎生辺地の往生な P--989 り。この機のためには臨終を期し来迎をたのむべしとみえたり。これみな方便 なり。されば願文の「仮令」の句は、現其人前も一定の益にあらざることを説 きあらはすことばなり。この機は聖衆の来迎にあづからず。臨終正念ならず しては辺地胎生の往生もなほ不定なるべし。しかれば本願にあらざる不定の辺 地の往生を執ぜんよりは、仏の本願に順じて臨終を期せず来迎をたのまずと も、一念の信心定まれば平生に決定往生の業を成就する念仏往生の願に帰し て、如来の他力をたのみ、かならず真実報土の往生をとぐべきなり。 【12】 問うていはく、諸行の往生をもつて辺地の往生といふこと、いづれの文 証によりてこころうべきぞや。  答へていはく、『大経』(下)のなかに胎生・化生の二種の往生を説くとき、 「あきらかに仏智を信ずるものは化生し、仏智を疑惑して善本を修習するもの は胎生する」義を説けり。しかれば、「あきらかに仏智を信ずるもの」といふ は第十八の願の機、これ至心信楽の行者なり。その「化生」といふは、すなは ち報土の往生なり。つぎに「仏智を疑惑して善本を修習するもの」といふは、 第十九の願の機、修諸功徳の行人なり。その「胎生」といへるはすなはち辺地 P--990 なり。この文によりてこころうるに、諸行の往生は胎生なるべしとみえたり。 されば十八の願に帰して念仏を行じ仏智を信ずるものは、得生の益にあづかり て報土に化生し、十九の願をたのみて諸行を修するひとは、来迎の益を得て化 土に胎生すべし。「化土」といふはすなはち辺地なり。 【13】 問うていはく、いかなるをか「胎生」といひ、いかなるをか「化生」と なづくるや。  答へていはく、おなじき『経』(大経・下)に、まづ胎生の相を説くとして は、「生彼宮殿 寿五百歳 常不見仏 不聞経法 不見菩薩 声聞聖衆 是故 於彼国土 謂之胎生」といへり。文のこころは、「かの極楽の宮殿に生れて寿 五百歳のあひだ、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖 衆を見ず。このゆゑにかの国土においてこれを胎生といふ」となり。これ疑惑 のものの生ずるところなり。つぎに化生の相を説くとしては、「於七宝華中  自然化生 跏趺而坐 須臾之頃 身相光明 智慧功徳 如諸菩薩 具足成就」 といへり。文のこころは、「七宝の華のなかにおいて自然に化生し、跏趺して しかも坐す、須臾のあひだに、身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のご P--991 とくにして具足し成就す」となり。これ仏智を信ずるものの生ずるところな り。 【14】 問うていはく、なにによりてかいまいふところの胎生をもつてすなはち 辺地とこころうべきや。  答へていはく、「胎生」といひ「辺地」といへる、そのことばことなれども 別にあらず。『略論』(略論安楽浄土義)のなかに、いま引くところの『大経』の 文を出して、これを結するに「謂之辺地亦曰胎生」といへり。「かくのごとく 宮殿のなかに処するをもつて、これを辺地ともいひ、または胎生ともなづく」 となり。またおなじき釈のなかに「辺言其難胎言其闇」といへり。こころは、 「辺はその難をいひ、胎はその闇をいふ」となり。これすなはち報土のうち にあらずして、そのかたはらなる義をもつては辺地といふ。これその難をあら はすことばなり。また仏をみたてまつらず法をきかざる義については胎生とい ふ。これそのくらきことをいへる名なりといふなり。されば辺地に生るるもの は、五百歳のあひだ、仏をもみたてまつらず、法をもきかず、諸仏にも歴事供 養せず。報土に生るるものは、一念須臾のあひだにもろもろの功徳をそなへて P--992 如来の相好をみたてまつり、甚深の法門をきき、一切の諸仏に歴事供養してこ ころのごとく自在を得るなり。諸行と念仏と、その因おなじからざれば、胎生 と化生と勝劣はるかにことなるべし。しかればすなはちその行因をいへば、諸 行は難行なり、念仏は易行なり。はやく難行をすてて易行に帰すべし。その益 を論ずれば、来迎は方便なり、得生は真実なり。もつとも方便にとどまらずし て真実をもとむべし。いかにいはんや来迎は不定の益なり、「仮令不与大衆囲 繞」(大経・上)と説くがゆゑに。得生は決定の益なり、「若不生者不取正覚」 (同・上)といふがゆゑに。その果処をいへば、胎生は化土の往生なり、化生は 報土の往生なり。もつぱら化土の往生を期せずして、直に報土の無生を得べき ものなり。されば真実報土の往生をとげんとおもはば、ひとへに弥陀如来の不 思議の仏智を信じて、もろもろの雑行をさしおきて、専修専念・一向一心なる べし。第十八の願には諸行をまじへず、ひとへに念仏往生の一道を説けるゆゑ なり。 【15】 問うていはく、一流の義きこえをはりぬ。それにつきて信心をおこし往 生を得んことは、善知識のをしへによるべしといふこと、上にきこえき。しか P--993 らば善知識といへる体をばいかがこころうべきや。  答へていはく、総じていふときは、真の善知識といふは諸仏・菩薩なり。別 していふときは、われらに法をあたへたまへるひとなり。いはゆる『涅槃経』 にいはく、「諸仏菩薩名知識 善男子 譬如船師善度人 故名大船師 諸仏菩 薩亦復如是 度諸衆生生死大海 以是義故名善知識」といへり。この文のこ ころは、「もろもろの仏・菩薩を善知識と名づく。善男子、たとへば船師のよ く人を度すがごとし。かるがゆゑに大船師と名づく。もろもろの仏・菩薩もま たまたかくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。この義をもつ てのゆゑに善知識と名づく」となり。されば真実の善知識は仏・菩薩なるべし とみえたり。しからば仏・菩薩のほかには善知識はあるまじきかとおぼゆる に、それにはかぎるべからず。すなはち『大経』の下巻に仏法のあひがたきこ とを説くとして、「如来興世 難値難見 諸仏経道 難得難聞 菩薩勝法 諸 波羅蜜 得聞亦難 遇善知識 聞法能行 此亦為難」といへり。この文のここ ろは、「如来の興世値ひがたく見たてまつりがたし、諸仏の経道得がたく聞き がたし、菩薩の勝法・諸波羅蜜聞くことを得ることまた難し、善知識に遇ひて P--994 法を聞きよく行ずることこれまた難しとす」となり。されば「如来にも値ひた てまつりがたし」といひ、「菩薩の勝法も聞きがたし」といひて、「そのほか に善知識に遇ひ法を聞くことも難し」といへるは、仏・菩薩のほかにも衆生の ために法をきかしめんひとをば善知識といふべしときこえたり。またまさしく みづから法を説きてきかするひとならねども、法をきかする縁となるひとをも 善知識となづく。いはゆる「妙荘厳王の雲雷音王仏にあひたてまつり、邪見 をひるがへし仏道をなり、二子夫人の引導によりしをば、かの三人をさして善 知識と説けり」(法華経・意)。また法華三昧の行人の五縁具足のなかに得善知 識といへるも、行者のために依怙となるひとをさすとみえたり。されば善知識 は諸仏・菩薩なり、諸仏・菩薩の総体は阿弥陀如来なり。その智慧をつたへそ の法をうけて、直にもあたへ、またしられんひとにみちびきて法をきかしめん は、みな善知識なるべし。しかれば仏法をききて生死をはなるべきみなもと は、ただ善知識なり。このゆゑに『教行証文類』の第六(化身土巻)に諸経 の文を引きて善知識の徳をあげられたり。いはゆる『涅槃経』には、「一切梵 行の因は善知識なり、一切梵行の因無量なりといへども、善知識を説けばすな P--995 はちすでに摂在しぬ」といひ、『華厳経』には、「なんぢ善知識を念ぜよ、わ れを生ずること父母のごとし、われをやしなふこと乳母のごとし、菩提分を増 長す」といへり。このゆゑに、ひとたびそのひとにしたがひて仏法を行ぜんひ とは、ながくそのひとをまもりてかのをしへを信ずべきなり。 浄土真要鈔 広末   [永享十年戊午八月十五日、これを書写したてまつりをはりぬ。]                           [右筆蓮如]   [大谷本願寺上人(親鸞)の御流の聖教なり。]                        [本願寺住持存如](花押) #2註記 [〔註記〕元亨四歳甲子正月六日、これを書きしるして釈了源に授与しをはりぬ。そも P--996 そも、このふみをしるすおこりは、日ごろ『浄土文類集』といふ書あり、これ当流の先 達の書きのべられたるものなり。平生業成の義・不来迎のおもむき、ほぼかの書にみえ たり。しかるにそのことば、くはしからざるあひだ、初心のともがら、こころをえがた きによりて、なほ要文を添へ、かさねて料簡をくはへて、しるしあたふべきよし、了源 所望のあひだ、浅才の身、しきりに固辞をいたすといへども、連々懇望のむね、黙止が たきによりて、いささか領解するおもむきをしるしをはりぬ。かの書を地体として文言 をくはふるものなり。またその名をあらたむるゆゑは、聖人(親鸞)の御作のなかに 『浄土文類聚鈔』といへるふみあり。その題目、あひ紛ひぬべし。これさだめて作者の 題する名にあらじ。他人のちにこれを案ずる歟のあひだ、わたくしに、いまこれを『浄 土真要鈔』と名づくるものなり。おほよそいまのぶるところの義趣は、当流の一義な り。しかれども常途の義勢にあらざるがゆゑに、一流のなかにおいてなほこのおもむき を存ぜざるひとあり。いはんや他人これに同ずべからざれば、左右なく一義をのぶる 条、荒涼に似たり。かたがた、その憚りありといへども、願主(了源)の命のさりがた きによりて、これをしるすものなり。文字にうとからん(一本にくらからんに作る)人 のこころえやすからんことをさきとすべきよし、本主(了源)ののぞみなるゆゑに、重 重ことばをやはらげて、一々に訓釈をもちゐるあひだ、ただ領解しやすからんをむねと して、さらに文体のいやしきをかへりみず、みんひといよいよあざけりをなすべし。か れにつけ、これにつけ、ゆめゆめ外見あるべからず。あなかしこ、あなかしこ。]                                  [釈存覚]